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仙台・石巻レポート(石巻編)

 8月6日は石巻の中山奈保子さんご一家にお会いするため、仙台文庫の大泉さんの運転で、仙台文庫のお手伝いをしている大学生の村上美緒さんと一緒に石巻を目指しました。

 10時に石巻港インターに到着、中山さん、そしてお子さん達にお会いしました。
 中山さんとは3月末にはじめてメールでご連絡をいただいてから、ブログを拝読させていただく関係にありました。

 中山さんのブログはこちらです

「被災地より、子供達の未来の為に」
http://ameblo.jp/kozakana-ishinomaki/


 車から降り、中山さんにお会いしてすぐ、両手で私の手を握ってくださいました。
 お会いできた喜びで、胸がいっぱいになりました。

 中山さんの車についていきながら、ご自宅のある石巻市築山地区へ向かいました。
築山地区へ近づくにつれ、瓦礫と、立ち枯れた植木、波の形に変形した工場など、テレビで見ていた被災地がそこにはありました。
 しかし、テレビでは分からなかったのは、匂いです。
兵庫県佐用町の水害のあった地区へ水害直後に行ったときと似たような匂いがたちこめていました。

中山さん築山自宅

 中山さんのご自宅は、一見すると被害が少ないように感じるかもしれません。
 しかし、一階部分はすべて流されてしまっています。

津波痕

 津波は2階の一番上の階段の下、数㎝まで迫ってきたことが、津波痕の線から分かります。

 中山さんのお話はとてもショッキングなものです。
 しかしながら、中山さんの語り口からは、「驚き」や「恐怖」だけではないものを感じました。母親としての強さ、故郷「石巻」を思う気持ち、いろんなものが合わさりながら、それをおだやかに語る様子に、本当に感銘を受けました。「お話に魅せられる」という表現が適切かはわかりませんが、自然とお話に聞き入っていました。
雰囲気が伝わるかどうか難しいですが、わたしがメモしていた文章をそのまま掲載します。

 築山地区に引っ越してきたのは約3年前で、この地区はもともと梨畑だった。40年前から義理の父の家が築山地区にあり、こちらへ引っ越してきた。義父は大工をしていたため、義父の家も、この家も、義父が建ててくれた。
 津波が来たのは3時15分から3時20分ごろだったと思う。地震が起きたときは、津波がここまでくるとは全く思っていなかった。私は仙台出身で、石巻のことはあまり知らなかったし、義父にも、「ここにはこない」と言われていたから。3時ごろ、お隣の奥さんと子どもたちが車で逃げていくのが見えた。逃げなければと思ったが、そのときには黒い水が迫っていた。孫を心配して来ていた義母と、子ども二人を2階の部屋に閉じこめて、自分は階段の前で津波が浸水してくるのをじっと見ていた。階段の4段目まではものすごい勢いで水がきた。そこからはじわりじわりとあがっていった。どこまでくるのかわからなかったので、もしこれ以上水がきたら、二段ベッドの一つを船にしよう、とか、はしごにつかまろうとか、そんなことをぐるぐると思いめぐらしていた。
 津波は結局、2階へあがる階段の最後の段の上から数㎝で止まった。
 津波が来た時は、ヘリコプターみたいなすごい轟音だった。しばらく開けていない重たい引き戸を開けた時の音にも似ていた。その後、引き波が何度かあった。夕方5時半ごろからだったと思う。その時の音は、川のせせらぎのようなサラサラした綺麗な音だった。
 3日後に自衛隊が「誰かいませんか」と声をかけてくれた。そのときは膝下くらいまで水が引いていた。自衛隊の人たちが近くの釜会館に私、義母、子ども二人を連れて行ってくれた。救出されたとき、隣の家の車が近くの墓地でひっくり返っているのが見えた。わたしたちは逃げなかったから助かった。しかし、それでも2階を水が超えていたらだめだった。運がよかったとしか言えない。
 義父は一階の天井付近で亡くなっていた。どうして2階へ行かなかったのか。行けなかったのか。
 石巻は海の町。潮の香りが石巻だった。いまは違う。匂いが一変してしまった。それが寂しい。
 仙台から石巻に来た時に、「もっとなれこくていいんだよ」と言ってくれた人がいた。「なれこい」とは「人懐こい」とかそんな意味。石巻に住むようになって、人に対してもっと心を開いていいんだ、と開き直ることができた。いまは仙台へ行くと、なんだかよそよそしい気分になってしまう。

 
 ご自宅を拝見させていただいた後で、中山さん達と石巻の沿岸部が一望できる日和山に向かいました。ここは、津波が来たら避難するよう言われていた、近くにある唯一の高台だそうです。
 
日和山から

 日和山からは、緑の平地が見えました。この緑の部分には、かつて人が住み、家があった場所です。津波がすべてを持ち去っていってしまったことに、言葉がありませんでした。
 日和山でおっしゃった中山さんの印象的な言葉があります。
 
 「石巻の被災写真は、日も経たないうちにものすごい数がウェブに公開されていて。でも、『あ、このひと石巻の人だ』とか、『これは県外から来た人だ』とか、撮った人が地元の人かどうか、なんか分かるんです。スーパーへ行く裏道から撮った写真だったりすると、石巻の人で、とにかく俯瞰から撮ろう、全体を撮ろうとするのが外の人」

 日和山から俯瞰で眺めて、「これが津波の恐ろしさか・・」と思っていた私でしたが、そんなふうに被害の大きさを目測しようとする視点は、やはり、わたしが「外の人」だからかもしれません。
 自分の街だったたら、「あの店はどうなっただろう」「あの人はどうしているだろう」と、面ではなく、点に意識が向いたと思うのです。わたしは阪神・淡路大震災で被災経験がありますが、この感覚はすっかり無くしていました。

 「記録する」ということは、誰の視点で記録するか、ということが大きなポイントになります。「市民の記録」という言葉の意味を、改めて考えるきっかけを与えて下さった中山さんご一家に、あらためて感謝申し上げます。

最後に・・・

石巻のお寿司

 石巻のお寿司、ほんとうに美味しかったです!
 仙台編といい、石巻編といい、お腹も心も満たされた出張となりました。

 また近いうちに必ず、仙台・石巻へおじゃまさせていただきます! 

仙台・石巻レポート(仙台編)

前回のブログでお話していました、仙台・石巻出張(8月5日~8月7日)のご報告をさせていただきます。


まずは仙台編です!

8月5日14:00、仙台文庫の大泉浩一さんと、ついに初対面しました!3月末にメールをいただいてから、まるまる4ヵ月が経過し、ついに初対面!正直、ものすごく緊張しておりました・・。大泉さんは優しく、ユーモアたっぷりの方で、なんだか昔からお知り合いだったように感じました。
大泉さんが代表を務められているメディアデザインで、お写真を撮らせていただきました。

大泉さん

まずは事務所に荷物を置かせていただき、せんだいメディアテークへ向かいます!

せんだいメディアテーク

せんだいメディアテークは、図書館にプラスαの機能がついた、仙台市の複合施設です。もうすぐ10年が経つそうですが、哲学カフェをはじめ、新しいイベントが日々開催されています。
「3がつ11にちを忘れないためにセンター」というプロジェクトがはじまっており、プロアマ問わず、市民から寄せられた映像・音声・写真を集め、ウェブ公開を進めています。
メディアテークの齋藤さんにお話を伺ったあと、さまざまな形で震災の記録活動を行っている3名の方々に集まっていただき、お話を伺いました。

メディアテークでお会いしたみなさん

お会いした方々は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台の佐藤正実さん(写真左奥)、同団体の坂本英紀さん(写真左前)、せんだいメディアテークで映像関係の学芸員をされており、現在、震災をとりまく日常のストーリーを集める「私たちの物語」というプロジェクトを主催している小川直人さん(写真右奥)です。

佐藤正実さんは、仙台の歴史に関する書籍やフリーペーパーを出版している「風の時編集部」としてお仕事をしながら、市民が撮った震災の写真を集め、それを書籍化するプロジェクトを行っています。

「3.11」市民が撮った震災記録
http://www.sendai-city.org/311.htm/


書籍化に向け、仙台の愛すべきキャラクター「むすび丸」をデザインしたバンダナを製作し、売上金を写真集発行のための資金にしよう!というプロジェクトも同時進行されています。

「むすびあい。」プロジェクト
http://yaplog.jp/sendai_kaze/archive/1824


佐藤さんは現在、写真を撮られた方の聞き取りをはじめていらっしゃいます。
私自身、今年4月から人と防災未来センターで資料専門員として働いていることもあり、写真そのものの記録としての価値は、その写真がどう撮られたのか、背景も記録されてこそ、唯一の価値が生まれると感じています。
佐藤さんも同じ考えをお持ちのようで、「写真」プラス「撮影者の想い」を記録することを、今後行っていくそうです。

佐藤さんが、撮影者の聞き取りの意義を強く感じられたきっかけになったお話がとても印象に残ったので、ここに紹介させていただきます。

写真を送ってきてくださった人のなかに、気になる人がいた。その人は、震災後まだ間がないころに、宮城の沿岸部を一日おきに北上した写真を送ってきていた。ガソリンもなかったころに、どうしてこんな写真が撮れたのか、不思議だった。話を聞くと、その人はこの震災の写真をどうにかして撮らなければならないという思いにかられ、宮城の近隣県のガソリンスタンドに電話をかけ続けた。新潟のガソリンスタンドで、「ガソリンありますか」と聞くと、なんでそんなこと聞くのか、と言われた。新潟ならガソリンが手にはいるのだとわかり、それからは、農業用の携行缶を積んで、新潟と宮城を往復した。それで、このような写真が撮れたのだとわかった。やはり写真だけでなく、なぜこの写真なのか、聞かなければ分からないことが多い。聞いてはじめて、「なぜこの写真なのか」という、撮影者の思いがわかる。

沿岸部の写真は、報道を筆頭に、沢山写真が撮られています。
写真を撮った人々の「思い」も記録すれば、わたしたちはもっと、震災に関わった人々の気持ちに近づくことができると思います。

せんだいメディアテークで学芸員をされている小川直人さんは、「私たちの物語」という活動をされています。

「私たちの物語―our story project」
http://ourstory.jp/


日常のなかで起こる、はっとさせられたり、ささやかだけど奇跡のような体験だったり、でもあくまで日常のなかでのお話を集めよう、というのがこのプロジェクトです。
本来は、震災前から小川さんが考えられていたプロジェクトだったそうですが、震災が発生してから、否応無しに日常のなかに震災が存在するため、「震災」を全面に出さない、日常のなかの震災を描きだそうとしています。
阪神大震災を記録しつづける会の手記集のなかにも、「震災手記」と名が付けられなければ、すぐには震災のことを綴ったものだと分からないものもあります。
災害を体験した人にとっては、1月17日以降も、3月11日以降も、生活は続いていきます。
震災後を生きている人たちの日常を感じることができる、貴重なプロジェクトになると感じました。

私自身は、阪神・淡路大震災の1995年当時は10歳で、記録や記憶について、沢山の団体が論議を交わしていた、ということは、後になって文書や写真で見る程度しか知りません。
今回、仙台の人たちにお会いして、「1995年の阪神はこんな感じだったのかもしれない」という思いに至りました。
それぞれが、それぞれの形で記録と向き合う。わたしもその輪のなかに入り、これからもお付き合いするなかで勉強させていただけたらなと思いました。

その後、大泉さん、小川さん、小川さんのお子さん、佐藤さんで牛タン夕食会をしていただきました!
お酒も沢山(というか、一番私が飲んだのではないでしょうか・・笑)いただき、本当に楽しく過ごさせていただきました!

牛タン定食

最後に嬉しいご報告です!
NPO法人20世紀アーカイブ仙台の佐藤正実さんが、来年2月11日に兵庫県民会館で行う「手記執筆者の集い」の参加をご検討くださることになりました!
またいつもとはひと味違う、集いになりそうです。
詳細が決まり次第、こちらにアップさせていただきます。
また、いつもご参加していただいているみなさまには、封書にて御案内をさせていただきます。

高森順子

8月5日から仙台・石巻へ行ってまいります!

記録しつづける会にご連絡をくださった仙台文庫の大泉さま、石巻の中山さまにお会いするため、8月5日から仙台・石巻へお伺いすることになりました!
念願かなって、ようやくお二人にお会いできることを、いまから楽しみにしております。

8月5日は仙台では七夕祭りの前夜とあって、ホテル・新幹線ともに、すべり込みセーフで予約できました。
沢山の方々が夏休みに東北を訪れ、「観光」という被災地支援がしっかり行われていることを肌で感じた次第です。

東日本大震災から早4ヵ月以上が経過しました。
お二人が当会のホームページを見つけてくださり、ご連絡をくださったことに、改めて感謝したいと思います。

仙台・石巻の訪問レポートは、後日アップさせていただきます!

高森順子

フロム0311・私たちの物語が始動しました!

仙台の市民出版レーベル、仙台文庫さまから、嬉しいお知らせが届きました!

東日本大震災の市民の記録を残すプロジェクトが、動き始めています。

フロム0311-東日本大震災と私たち-
http://0311.sblo.jp/

フロムゼロサンイチイチ、と読みます。
2011年3月11日に発生した東日本大震災を、市民の立場から記録し、伝え、新たな縁を結び合うためのウェブサイトとして立ち上げられました。
私たち「阪神大震災を記録しつづける会」も、その「縁」のひとつとして、活動をご一緒させていただいております。

また、東日本大震災をめぐる人々の経験を「語り直す」「書き残す」ことを主軸にした、実験的な活動がはじまっています。

私たちの物語ーーour story project
http://ourstory.jp/

私たちの物語のstory1は、当会にご連絡いただいたのが縁で、仙台文庫さまと繋がった石巻の中山奈保子さまです。
お子さんとの何気ないやりとりから伝わる、日常のなかに溶けこんだ「災害」の有り様が伝わってきます。

仙台文庫さまが中心となった活動に当会も賛同し、「震災の記録を残しませんか」とのタイトルで、記録収集の呼びかけ文を寄稿させていただきました。
仙台文庫さま、ならびにフロム0311に載せていただいた文章を、こちらにも転載いたします。
仙台のみなさまと一緒に、当会も歩みを進めていけたら幸いです。


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2011年06月17日

震災体験を書いてみませんか 「阪神大震災を記録しつづける会」から
 
いまから16年前のとても寒い早朝に、「大震災」と呼ばれる出来事が起きました。私たち「阪神大震災を記録しつづける会」は、公の記録が目に留めないような、ささいな体験を記録することを目標に、震災体験の手記集出版という活動を10年間行ってきました。

 なぜ、ささいな体験を記録する必要があるのでしょうか。

 少し遠回りになりますが、当会の発起人である、私の伯父の故・高森一徳から聞いたエピソードを紹介したいと思います。

 一徳の父、康夫は、1945年8月に軍人として広島市に入り被爆しました。晩年に被爆者手帳を申請しようと試みましたが、「当時その場にいたことを証明するものがない」とのことで、手帳の取得を半ばあきらめていました。自分が確かに被爆体験したことを証明するものはないか。康夫は当時、現在の「原爆ドーム」の側を流れている太田川の橋のたもとに書かれた言葉を思いだし、証言しました。「国破れて山河在り」。

 誰かがチョークで書き残したこの言葉は、数日で消えてしまったものでした。その証言が別の人の記録と合致し、被爆体験として認められ、被爆者手帳を受け取ることができました。ささいな記録、そして、いま残さなければ忘れられてしまうような記録が誰かの役に立つ。これが、わたしたちの活動の原点になっています。

 2011年3月11日に、「大震災」と呼ばれる出来事が再び起きました。震災にまつわるささいな体験は、徐々に色あせていき、忘れられてしまいます。忘れてしまいたい体験だから、書きたくもない。その気持ちに反してまで、書いてくださいとは言えません。ただ、あなたひとりのかけがえのない体験が、未来の被災者の心を支え、寄り添うものになるかもしれません。

 フロム0311の活動が、地元のみなさまの間に広がっていき、かけがえのない体験が記録されていくことを願っています。

阪神大震災を記録しつづける会・事務局長
高森順子

路傍の石碑

上西勇さんという神戸の方が、自らの足で三陸沖地震を伝える石碑を調べあげた集大成の本があります。
『忘れるな 三陸沿岸大津波 惨禍を語る路傍の石碑』と名づけられたこの本は、JR灘駅近くの「人と防災未来センター」資料室に現在開架されています。

3年前に趣味のサイクリングをしながら、東北各県をまわり、当時の人々の「二度と繰り返さぬよう」との思いがつまった石碑の記録を行ったそうです。
石碑に刻まれた文字、石碑の形、場所などが克明に記されています。

東日本大震災の記録について阪神・淡路大震災の記録を考えてきた当会は、いったい何ができるのか、戸惑うこともあります。
そんななかで、上西さんの本を読むうちに、東日本大震災の記録を残し、伝承することは、2011年3月11日のことを記録するだけではないと思いました。
つまり、三陸大津波をはじめとした、災禍と復興の歴史の延長線上の「東日本大震災」を記録することが、大切だと思うのです。
そして、3月11日以降に作られる歴史も、記録していくことが大切です。

来年年始に行う「手記執筆者の集い」も、おかげさまで3回目を迎えることになります。
「集い」では、東日本大震災についても、必然的に語り合うことになるでしょう。
それまで、当会として、東日本のために「できること」を探していきたいと思います。

事務局長 高森順子
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